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Friday, September 23, 2016

パターンの意義

世界的に活躍されているデザイナーとして「佐藤オオキ」さんを取り上げるテレビ番組を最近良く見かける。


そんな彼が出演している番組を見ていて、カイロプラクターとして非常に面白い再発見があったのでブログにしてみた。




いつも同じような服を着て、いつも同じカフェで、いつも同じものを、いつも同じ席で嗜むことで、微細な変化に気づくことができる



そう言った彼は、意図的にパターン化させた日常の中に身を置くことによってほんの僅かな変化に気づけるようにしているという。

一種のルーティーンワークのようなものだ。

その主な作用として、「微妙な違いを感知するため」、「メンタルを落ち着かせるため」、「いかなる状況でも安定したパフォーマンスを発揮するため」と色々あるが、カイロプラクティック的に見れば日常をパターン化することで余計な労力を使わないためだと言える。




また、お笑い芸人として今尚第一線で活躍している「明石家さんま」さんも、パターン化させたお笑いを得意とする。

同氏がパターン化した笑いについてこう言っていた。


パターンを作った方が、見ているお客様も安心して笑える



安心の中の笑いを提供することに突出した彼ならではのお笑い哲学であり、視聴者として安心して見られる所以だ。



なんでも初めての事、未知な事に関しては緊張が伴うもので、初めて行く場所や初めてやる事を終えた日は、家に帰るとぐったりした覚えがあるだろう。

それだけ慣れない事をするのは神経を使うという事を、体はしっかり覚えているわけだ。


だからこそ、パターン化させて労力を最小限に抑えるというシステムが人間にはプログラミングされている。







パターンにはちゃんと意義がある。

カイロプラクターとしてなぜそのパターンを見るのか、なぜパターン化している事を問題視しているのかは、また後日ブログに書きたいと思う。



Friday, September 16, 2016

"ストレート"の価値

クライアントと話すことがあり、今一度振り返ってみた。

私が卒業したカイロプラクティックの大学は、今提供しているカイロプラクティックとは全くもって似て非なるものを教えている。

MURDOCH UNIVERSITY, Division of Health Science, School of Chiropractic and Sports Science
(現 Chiropractic Science and Clinical Chiropractic)


私が大学で学んだことは一般的な医学教育で、カイロプラクティックの独自性は何もなくカイロプラクティックを学んだ実感が得られない日々を送っていた。




そこでストレートカイロプラクティックと出会い、やっと自分の求めていたものに出会えたという喜びが私の人生を大きく変えた。

その瞬間から医学教育には価値を感じられず、ストレートカイロプラクティックへの価値が高まって行ったのを覚えている。





学生生活をサポートしてくれていた両親には、私の急な方向転換に驚きや不安や様々な感情があったと思うが、私の感覚を信じて背中を押し続けてくれたことはこれ以上にない幸運であり、私の感じたストレートカイロプラクティックへの価値に更なる価値を与えてくれている。







なぜそこまでストレートカイロプラクティックに価値を感じたか。

それは、言葉では表現するのが難しいが「尊敬と信頼」といったところだ。



オフィスに訪れるクライアントに対しての尊敬と信頼、それを表現しているストレートカイロプラクティックに魅力を感じたのだと今になって思う。




それまで学んでいた"カイロプラクティック"では、ドクターが全て正しく、その答えを患者に強要して相手を否定するような印象だった。

しかしながら、ストレートカイロプラクティックでは、クライアントが正しく、その答えをカイロプラクターが的確に読み取り、それを促すように力を貸すというものだ。




実際、私のタイプのカイロプラクティックを「患者にエゴを押し付けている」と言う人がいると聞いたことがあるがそれは間違っている。


そもそも私にとっては"患者"ではなく一人の人間として、自分にできることを弁えながら向き合わせてもらっているだけだ。







相手に対する絶対的な尊敬と信頼をそのままに表現するストレートカイロプラクティックに出会えて本当に幸運だと思うし、そんな他に類を見ない尊い価値のあるものに携われることに喜びを感じる。



私にとって価値あるものが他人にとって同じように価値があるとは限らないが、大事なことを教え続けてくれているストレートカイロプラクティックの価値をそのままに表現者として表現できるように高みを目指していきたい。








Tuesday, September 13, 2016

クセ

これを見るのは面白い。

ほとんどのクセが、自分の身を守るために行っているということをどれだけの人が知っているだろうか。





人間を含めた生命体は、産まれながら自らの身や種を守るという本能がプログラミングされている。

つまり、自分の都合第一主義。(人間は自分の都合を後回しにできる力があるが)






クセには身体的なクセもあるし、精神的なクセもある。

いずれもそうしなければ自分が生きていく上で不都合になるから、必要があってそのようなクセを身につけていると言っても過言ではない。


身体的なクセで言えば、自分の身を守るためには環境に適応していかなければいけないわけだが、適応するには全身の情報網である神経ネットワークに物理的な干渉があると一大事だ。

だからこそ、体を傾け、ねじらせることによって神経へかかる圧を取り除こうと一生懸命頑張っている=いつも足を組む、腕を組む、相手に対して斜めに座る、顎を上げてしゃべる、顔が傾く、等々のクセが現れるわけだ。




周りの人のクセを見てみると、結構面白いかもしれない。





Friday, September 9, 2016

深化 Progression

ものの見方、裏付け、技術についても、深化なしには発展はない。


学校というのは、最低限の基準を設けてそれをクリアしさえすれば卒業できる。

しかしながらカイロプラクティックに関しては、学校を出ればカイロプラクティックの全てを心得た者とは言い切れない。

あくまでも最低限のラインをクリアしたに過ぎないわけだ。




例えて言えば、音楽の授業だ。
リコーダーである曲の練習をして、楽譜に書いてある通りに音を出せるようになったら、ほとんどの人がそこで満足する。

でも音楽の道に進もうと思っているのであれば、作曲者の性格、時代背景、想いを楽譜から読み取り、リコーダーのメンテナンス、指のタッチ、息の吐き方、体の使い方など、無限に深める項目があって終わりはない。




その道を進もうと決意したのであればその道を突き進めば良いのだが、やむをえない場合を除き、多くが違う道へと進んで行く。





それが良い、悪いというわけではなく、大変であれ学んだことをより深化していくことの面白さをカイロプラクティックは私に教えてくれている。





日々実践する中で様々な壁に直面する。


その壁を突破するには、より哲学、科学、芸術を深化していく以外にはない。





幸い、日本にはカイロプラクティックの哲学、科学、芸術をまっすぐに深化させているカイロプラクターが数人現役で存在しているため、壁に直面したときにその先輩方の一言、所作でハッとして壁をぶち破ることができる。





早合点や、わかったつもり、できているつもりは深化、進歩を生み出さない。







Friday, September 2, 2016

カイロプラクティックはおもしろい

やっぱりカイロプラクティックには魅力がある。



対象とするのは脊椎サブラクセーションという単一な状態であるにも関わらず、

その状態から解放された生命体は予想もしない多種多様な表現をしてくれる。




一人として同じ人間はいないし、あなたはあなた専用の体で命だ。

だから脊椎サブラクセーションという共通する状態であっても、それから解放された時の表現は誰一人として同じものはない。




電車に乗っても誰一人として同じ背丈、体重、スタイル、ファッションをしている人はいないだろう。

元々あなたはオンリーワンで、皆と違う。


Aさんに紹介されたBさんはAさんと同じ表現を求めてこられるが、正直それには応えられない。


AさんとBさんは、根本的に違う人間だからだ。

それを認識できればBさんはオンリーワンの表現を誇らしく思うようになる。





唯一無二である自分自身を誇らしく思えるようになればどうなるのか、想像に難くない。




単一でシンプルなカイロプラクティックのサービスで、多種多様で豊かな世界になるなんて、素晴らしい職業だ。



Thursday, September 1, 2016

インテリジェンス


存在の根源となっているのがインテリジェンスだ


というのがカイロプラクティックの基本的な考え方にある。


一般にインテリというのは頭が良い人のことを言うが、頭が良いとはどういうことだろう。

「この人は頭が良いな〜」と思うのはどんな時だろうか?


おそらく単なる知識の蓄積、羅列よりも、知識を多彩に組み立てる能力のある人と接した時に感じると思う。


私は割と知的好奇心が強い方で、おもしろいと思ったものはある程度腑に落ちるまで追求する。逆に興味のないことにはとことん興味がないが…(笑)






なんでだろう?と思うのは人間が人間である大きな特徴であり、多くの意味付けによって自分や他人、世界の存在が特定される。


宇宙という空間には分子、原子、陽子、中性子、電子、ニュートリノ…と素粒子で満たされていて、そのランダムにある万物の素材が集まることで形を成すというのが現在の人智の及ぶところだ。


その無数にある素材を活かして初めて万物が存在することができ、その素材を組み立てるプロセスそのものがインテリジェンスだと言える。





それはまるで「シュレーディンガーの猫」のようなものだ。




逆に、インテリジェンスを全く無視した場合、そこには自分も宇宙も素粒子も何も無くなる。

「有」はインテリジェンスの作用によって特定され、インテリジェンスがなければ素材も応用力も無いので、そこには存在も何も無いという無限の「無」となる。





つまり私の主張は、すべてを創り出しているのはインテリジェンスそのものであり、そのインテリジェンスを持った者が自由にすべてを創り出せるということだ。

もっと簡単に言えば、すべては自分次第ということ。







自由に作って組み立てて、生きたいように生きている。

メカニズムは後出し

"Mechanism"とは『機械論』という意味だが、単に「メカニズム」という日本語になりつつある。

翻訳するときは「作用機序」と訳されたりもするメカニズム。


実はその「メカニズム」は間違っていることがある。





起こった現象を、どうしてそのような結果が出たのかという仮説を立てて様々な条件で検証し、その現象が如何にして起こったかを特定するのが機械論の基本的な考え方だ。




世の中は分からないことだらけで、なぜそうなっているのか分からないがその"法則"を利用して我々の人間的な文明が発展してきた。


様々なメカニズムが解明されてきている反面、未だ解明されないメカニズムも多く、それらしい仮説のもとに理論を確立し実社会で実践されている。


身近に、巷の面白い仮説を検証するテレビ番組もあるくらいだ。




しかし、作用機序の仮説が間違っていることは歴史上よくある。

例えば昔、前成説という生命の誕生に必要な精子には小さな人間が入っていると思われていたが、顕微鏡技術の発展によりその仮説は否定された。




カイロプラクティックにおいても、過去の約120年間に仮説的な理論に基づいて実践が行われ、検証され続けてきたものが現存している。



人は後天的に得た叡智を駆使する生き物なだけに、納得できるものでなければ生き残っていけない。




脊椎サブラクセーションの状態も技術的な進歩によって存在を肯定も否定もされうるわけだが、如何に後出しじゃんけんで勝ち続けるかがカイロプラクティックの生き残りにかかっている。