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Friday, May 27, 2016

カイロプラクティクは相対的

カイロプラクティックの哲学は深く、現実的だ。

カイロプラクティックの考え方では「他と比較しない」という特徴がある。
  (過去に書いたブログはこちら




それは、絶対的な尺度で判断される一般的な通念とは大きく性質を違う。



例えば「点数」 (A, B, Cの三人はそれぞれ実力を100%を出し切ったという前提)

毎年難易度が変わらないテストで平成28年にAさんは80点、Bさんは60点、Cさんは100点を取った。
翌年同じテストでAさんは90点、Bさんは100点、Cさんは90点となった。

優劣の順位が付けられる一般社会で評価されるのは、 
平成28年は1番がCさん、次にAさん、そしてBさんだ。
平成29年は1番がBさん、次にAさん、Cさんだ。 

そして2年で各自比べると、
Aさんは過去の自分より10点優れ、Bさんは40点優れ、 Cさんは10点劣ったことになる。
 




しかしカイロプラクティック的な考えで言えば、
AさんもBさんもCさんも、皆100%を出し切ったので同列であり、優劣の問題ではない。そして過去の自分との比較による優劣もない。 


天体で言えば、太陽、地球、月の引力がそれぞれ異なるだけで、それぞれに固有の引力があるだけの話で優劣ではない。




さて前置きが長くなってしまったが、

オフィスに来たクライアントがサブラクセーション下にあるかどうかの判断をする時、その判断基準値はAさん、Bさん、Cさん、それぞれ違っていて当たり前だということだ。

うちのオフィスでは、チェック時に厚さの異なる板に乗ってもらい、何ミリの時に身体機能が正常化するかを判断基準の一つにしている。


簡潔に言えば、各人のサブラクセーション下における適切な板の厚さはA, B, Cさん、それぞれ違うということだ。

Aさんは10mmでパターンが消える、Bさんは3mm、Cさんは8mmという具合に。



つまり、カイロプラクターがどの人に対しても「5mm以上はサブラクセーションである」という決めつけの判断は間違っているということだ。そして、同一人物であっても、10歳の時と90歳の時とでは判断基準が変わるということ。
画一的な判断基準はまるで、「生涯通じてテストで80点以下の人間は人間じゃない」と言っているようなものだ。








総じて僕の主張したいことは、

何が正しくて、何が間違っているのか?
何を指標に判断を下せば良いのか?
その判断は各人固有の判断基準に則るのがカイロプラクティック的な判断基準であるということで、もっとシンプルに言えば基準は"その人"であって他人が画一的に決められることじゃないということだ。



つまりカイロプラクティクでの正解はその人であり、その人固有の内在する叡智(Innate Intelligence)が行う事が正しいと考える。




従って、内在する叡智の能力は下がらないし上がらない。
常にその場、その状況に応じて100%である。 

ただ単に、物質と時間の制限によって内在する叡智から創られた100%のフォースが干渉され、サブラクセーションという状態になってしまうだけだ。 


無限にフレッシュな物質と無限に持て余した時間があれば、内在する叡智はサブラクセーションすらも骨を溶かし、変形させ、サブラクセーションという状態からも脱する事ができるだろう。

だが残念ながら、それらは自然の摂理に無い。

Saturday, May 21, 2016

Get sick people wellの私的考察

Get sick people well

病人を良くする


BJの掲げたスローガンで有名だが、これを何も深く考えずに読めば「カイロプラクティックで病人を治すんだな」という印象だ。





ここで、時代背景やカイロプラクティックの独自性を主張していたBJの想いを考察してみる。


当時、カイロプラクティックの哲学はほぼ確立されていた。
しかしながら、その哲学を裏付ける科学や、哲学を表現する芸術(実践)が追いついていなかった。

そのために、アメリカ医師会に"インチキ療法"だとコケにされてカイロプラクティックには市民権が与えられていなかった。





創始者のD.D. Palmerが医師法違反で逮捕され、有罪判決が下された時に、
「私は無実だ!医療の方が病人を良くできていないことで有罪である!」
と叫んだそうだ。
つまりD.D. Palmerは、病人を良くするためにカイロプラクティックを行っていたからこそ逮捕されたのだ。



医師法違反で続々と逮捕者が出る現状で、BJは科学的にカイロプラクティックの正当性を主張するためにリサーチクリニックを開設し、医師や看護師を抱え込んでのリサーチを行い、膨大なデータを集めてカイロプラクティックケアが科学的に有効であると結論付けたわけだ。

言い換えれば、カイロプラクティックを医療の側面から正当化したということになる。




つまりGet sick people wellを掲げた背景には、
1.多くの病人を集めてデータを取りたかった
2.誰にでもわかり、インパクトのあるキャッチコピーが欲しかった
3.対アメリカ医師会が色濃く出ていた
4.医師会に認めさせるために医療的なデータを集めたかった
5.医師会からの弾圧に抵抗する材料が欲しかった


以上の理由が考えられる。




そしてBJは同時にカイロプラクティックの独自性の主張にも躍起になっていた。



そこで引き合いに出したのがやはり、医療だったのだ。

医療は病人ではなく病気を相手にしている
医療は人体に何かを付け足す、所謂医師中心的な考えである
医療は人工的である


それに比べてカイロプラクティックは

病気ではなく病人(sick people, dis-ease people)を相手にしている
何も付け足さず人体内にある自然の力を活用する、その人中心的な考えである
カイロプラクティックは自然である



そう主張し、微妙な言葉遣いの中にカイロプラクティックの独自性を込めながら、対比的にカイロプラクティックの正当性を主張したかったのだ。



<余談>
医療において「病気を治す」であれば、Cure disease と言う表現を当てがうのが適切であるが、カイロプラクティックでは病気は治さない。治すのはその人自身であるということ。そして 、sick peopleという単語を使うことで病気だけをターゲットとしている医療と違って、人間を相手にしていること。さらにその人々を治すのではなく、良くなる、良好な状態に持って行くというGet ~ wellを用いていることに、医療との違いを込めた一文になっていると推測できる。こういう微妙な言い回しが好きだとグリーンブックを読むとわかってくる。




以上を鑑みると、Get sick people wellのスローガンには多くの想いが込められているのではないかと推測できる。







しかしながらGet sick people wellをスローガンとしてカイロプラクティックを用いたBJは、その後多くの混乱を引き起こすことになる。

Get sick people wellは、謂わば医療の目的と同一だとみなされる。
そこで医療とカイロプラクティックの住み分けが必要となるが、目的を医療と共にした時点でカイロプラクティックは単なる手技の一つとなってしまったわけだ。


全ては病人を良くするため。
その目的を達成するには手段は問わない。
一手段となってしまったカイロプラクティックが、その本質を失ってしまったのは現状が指し示すところである。



「医療とは違う独自のものだ」と声高らかに唱えたのに、Get sick people wellというスローガンによってカイロプラクター達の目的が医療と同一となってしまったことで、結果的にカイロプラクティックの独自性が失われてしまったという、実に皮肉な結果になってしまった。



しかしながらBJが行ったことは、良かった悪かったと批評されるべきものではなく、立場を確保するためにベストを尽くした結果であり、現在でもカイロプラクティックという固有名詞が残っているのはBJの功績なくして語れないだろう。







でも僕はカイロプラクティックという固有名詞よりも、カイロプラクティックの中身、本質を残していきたい。いずれカイロプラクティックが日本で法制化されるか禁止されればカイロプラクティックという固有名詞を捨てて、本質のみを残していくしかないと考えている。




一つの目的の下で、
信念に基づいて行動する

これまでの医療との比較ではなく、これからのアイデンティティの確立に必要な要素はそれではないだろうか。

カイロプラクティックは誰に有益か

"Get sick people well"


これはBJがカイロプラクティックをより多くの人に知ってもらうためのスローガンとして掲げた言葉だ。


直訳すれば

「病人を良くする」

となる。



キャッチーな言葉に、医療を受けても良くならずに医療難民となっている人々にとって希望の光となったに違いない。





BJパーマーリサーチクリニックでカイロプラクティックケア(HIO)のみを施して病人がどう変化するかを数千例もデータを取った。



視覚、聴覚、血液、尿、心電図、血圧、血糖、……その他にも多くのデータが記録され、

カイロプラクティックケアで多くの人が"改善"して医療よりも優れていると明言した。


「カイロプラクティックは医療よりも早く、より良い結果を出せる」と。







カイロプラクティックケアによって頭痛や肩こりや腰痛、その他の病気などが改善する可能性は否定しない。


未だその効果を謳い、それを目的としているカイロプラクターも多い。

しかしながら、多くの病人が正常化する中、何も変化しない人がいたのも事実だ。

つまり、"Get sick people well"の目的の下にカイロプラクティックを用いても役に立たないことがあるということだ。








僕自身は、不快な症状や病を良くすることを目的としていない。


僕の目的は、脊椎上の神経伝達の干渉を取り除くこと。それだけだ。


なぜなら、脊椎上で神経伝達が干渉されると適切に自己表現できないからだ。





Reggie Goldがこう表現していた。

「カイロプラクティックを頭痛、肩こり、腰痛の改善のために使うのであれば、カイロプラクティックの極一部の恩恵しか受けられていない。それはまるでフードプロセッサーをジュースを作る為だけに使っているようなものだ。」




目的が"Get sick people well"であれば、カイロプラクティックケアだけで足りるわけがない。
環境、運動、栄養、休養、口腔ケア、衣食住、社会的活動、主観的健康観などなど挙げればキリがない。





僕にはそこまでできない。
脊椎上の神経伝達干渉を見つけ、正すことで手一杯だから。




でも、生命表現の基礎を成している脳と体のコミュニケーションを回復させれば、
その上に積み重なる生活要素の質を無駄なく活かせるだろう。




だからこそカイロプラクティックを症状を持っている人だけのものにしたくはない。

どの生活レベルの人でも、間違いなく力になれると信じているから。



Saturday, May 14, 2016

カイロプラクティックは受けなくても良い

「カイロプラクティックを受けましょう」

これはカイロプラクターの叫びだ。



ほとんどのカイロプラクターが、ケアを受けることで良いことがあると信じ、
それを推し進める。


受けましょう、受けた方が良い、むしろ受け続けなきゃ悪くなる。

過去にそんなことを言われたというクライアントさんも多い。



しかしながら、実際は受けなくても生きていける。

むしろ、世の中にはカイロプラクティックを受けたことのない人がほとんどだ。



金さん銀さんだって、カイロプラクティックを受けたことがなくても100歳を優に超えるまで生命を全うしたわけだ。



カイロプラクティックは受けなくても良い。



ただカイロプラクターとしての立場から言わせて頂くなら、

カイロプラクティックのある人生で、自分は生きる活力を得られた。
だから僕はカイロプラクティックのある人生を提案し、同じ思いを共有できる人が出てくれば良い。

そういう想いで、カイロプラクティックのある人生を提案させて頂いている。




あなたの人生には、あなたの目標や夢、生き甲斐が中心にある。
その中心にあるものに、陰ながら力になれる。


でも、あなたの目標や夢、生き甲斐に役に立たないなと思われればそれで良い。
実際にカイロプラクティックを生き甲斐にしている僕にとって役に立たないことは僕の人生には取り込もうとは思わない。


受けるか受けないかはあなたが決めることで、こちらが強要することじゃない。




主役はあなた自身なのだから。


もし力が必要な場合は、僕は黒子としてサポートさせて頂きます。



Wednesday, May 11, 2016

母 その後

母が小脳梗塞で倒れてから早3ヶ月が経とうとしている。


最初に病院に駆けつけた時は意識もなく、自分が東京に出るという時に今後どうなる事かと本気で思った。



長男として、もっと離れてしまって良いものか。父と姉達に過度の負担をかけてしまう事にならないか。
こんな時に東京に夢を追う事が許されるのか。



意識が徐々にハッキリしてきて罹患2ヶ月に差し掛かろうとした時にようやく、宮崎にあるリハビリに力を入れている病院に転院出来、毎日休まずリハビリを頑張っている。



父や姉達に負担を掛けているが、遠く離れて心配している僕に写真を送ってくれたりしている。



「母の日」

そんな響きが大きく感じるのは初めてかもしれない。

今までなんか照れくさくて何もした事なんてなかったが、今回は母が生きて母の日を迎えられることに嬉しかった。


入院中なので生花は送れなかったので、小さなプリザーブドフラワーを送った。


母が今後、色々と『こうなれば良いな』と思う事はあるけど、生きててくれる、共に時間を過ごせるだけで有難い事だなと改めて思う。




父も未だ第一線で仕事を頑張っている。
姉達も忙しく疲れている中、病院に駆けつけてくれている。



みんなの疲れが気がかりだが、僕は僕で出来ることを頑張らなければ。



Tuesday, May 10, 2016

必要十分

営業をするに当たって、直面する事がある。






「必要」と「十分」

ここに大きな差がある。


前者は、「これ"が"良い、これ"しか"ない」→ これが欲しい(I need)

後者は、「これ"で"良い、こんなに"も"ある」→ これはいらない(I do not need)



カイロプラクティックケアを受けた事のない人に提案する場合、後者の方には幾ら想いを熱く語っても相手方には響かない。それどころか暑苦しくて面倒くさいヤツというレッテルももれなく付いてくる。



しかし、前者の方は可能性を見出してくれる。




欲は悪いものだという慣習が蔓延っているが、そのコントロールが問題であって欲そのものに非はない。


生まれながらに備わった欲の片鱗である「これ"が"良い、これ"しか"ない」という想いは進歩に必要な条件だ。



そんな現状に満足せず、「必要」だと思っている方は、カイロプラクティックケアによってお力になれるし、こちらの提案に興味を示してくれる。




あなたは、今の自分に満たされているだろうか。




もしもあなたの想いの100%が、顔を声を体を使って70%"しか"表現出来ていなかったなら。


もしも相手の想いを100%感じてあげられなかったなら。



そして、



もしもあなたの想いの100%が、顔を声を体を使って100%表現出来たなら。


もしも相手の想いの100%を感じてあげられたなら。




(Facebookより; いつ何時もより安く済ませようとする人がいる)




※カイロプラクティックで言う100%とは"適切に" or "正確に"という事を意味しており、量的なものでなく質的なものを暗に示しています。

※より安く済ませるのが悪いという訳でなく、何にどれ程の質を求めるのかという事の提起です。

Thursday, May 5, 2016

10年

自分がカイロプラクティックを学ぶために上京してから10年目に再び上京した。


この10年での自分の変化に自分が一番驚いている。




ストレートカイロプラクティックに出会うまでは、人体の構造や機能、病気や症状に対する対処の仕方を学んだ。

しかしストレートカイロプラクティックに出会って一番最初に抱いた印象は、

「これで良いんだ」

という、曇っていた空から太陽の光が鋭く、そして優しく降り注ぎ、一気に空を覆っていた雲が吹き飛んだような、そんな吹っ切れ感だった。



人体の勉強には膨大な知識が必要で、とかく毎日必死に学んだ。

医学書に埋もれて勉強していた最中に、極めてシンプルで医療とは全く異なる独自性を孕んだ、「これぞカイロプラクティックだ」という芯に触れ、それまでの人生から大きく変わった。



それからは、一般的に普及している"カイロプラクティック"を毛嫌いしていた。


「こんなのはカイロプラクティックじゃない」


そういう想いは時間とともに強くなり、そして時間とともに減衰していった。




アメリカに行ってる時に、DCの集まるセミナー中に現地の学生に言われた一言があった。

僕:「こいつらはカイロプラクティックが何たるか、全然わかっちゃいねえ。    しっかりしろよ、アメリカのDC達」
学生:「ははは、それか君がわかってないだけかもね」



その時に、何だと?!とは思わなかった。

確かに、カイロプラクティックとは何たるかというものは、多勢が決めること。

大多数を是とする民主主義の世界では、至極当然のことだと妙に納得した。




そこから徐々に他人にストレートカイロプラクティックを求めることがなくなってきたのを覚えている。



医療としてカイロプラクティックを行っている姉からもこんな言葉をもらった。

「患者さんにはカイロプラクティックなんて関係ないからね〜」




クライアントを含め、多くの周りの人にストレートカイロプラクティックを求めていた、押し付けていたんだなとわかった。




自分はストレートカイロプラクティックを通して計り知れぬ大きな感動を覚えた。
でも、他の人が同じように大きな感動を覚えるとは限らない。

まるで同じ音楽でもクラシックが好きかJ-POPが好きか洋楽が好きかがそれぞれ違うように。





自分が感動を覚えたように、自分が提供するものに感動を覚え人生がより豊かになるような人が出てくるのか。




これからの10年はどういう10年になるだろう。



10年後の自分に会えるのを愉しみにして

NON by Taro Okamoto

Tuesday, May 3, 2016

カイロプラクティックは実践哲学





「なんでこんなに凄いものが過去の遺産になってしまっているのか」




学生時代にグリーンブックを読んだ時にそんな憤りに似た感覚を抱いたのを覚えている。


カイロプラクティックの哲学、科学、芸術

どれを取っても素晴らしく、深く、美しい。





なのになぜ、そんな普遍的なアイディアとその実践が伝えられていないのか。
なぜ、過去の"異物"とまでの扱いを受けているのか。


それは一言、「実践」に尽きる。






カイロプラクティックは実践して初めて価値を持つ。


単に脊椎サブラクセーション下にあるのかを見極め、分析し、それをアジャストする。


それだけ。






ただ、その『それだけ』が容易ではないのは実践している者に解る共通項だろう。





シンプルこそ究極。が故に難い。



カイロプラクティックにはそんなシンプルで多彩な美が内包されている。