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Saturday, August 31, 2013

共生?

自然環境に注目が集まるようになってから、「自然を守ろう」、「地球を救おう」、「自然と共生しよう」といった謳い文句が横行しだした。



けど、その謳い文句はどうも意地汚い、卑しい印象を抱くのは自分だけだろうか…?


あたかも自分たちは何かを守るヒーロー、ヒロインになるんだ!自分達は正義の味方だ!という風に自分たちを“美化、正当化”しているに過ぎない。






自然は人間なんかに生かしてもらおうなんて考えてないし、地球は救って欲しいなんて考えてない。ましてや人間と共に生きましょうと考えているわけがない。地球は泣かないし、笑わない。

人間の都合で森林伐採、環境破壊が起こっても、自然は、地球は何も思わないし、言わないし、痛くも痒くもない。



たまにテレビで自然災害を取り上げて、「これは自然からの警告かもしれない…」とか言っているのを聴いたとき、ちゃんちゃらおかしくて笑えない。


自然は、地球は怒らないし、人間に対して警告なんか発しない。



それはあくまでも、当然の結果でしかない。
木を切りゃ土がむき出しになり雨が降ると水を蓄えきれなくて地滑りを起こす。
温室効果ガスを排出し、木を切れば気温は上がる。氷は解ける。海面は上昇する。大雨は降る。

極々、当然の結果が起こるだけで、それは人間に対する報復でも警告でもなんでもない。



地球は人間が生きようが絶滅しようが関係ない。温暖化しようが氷河期になろうが関係ない。ただ命あるものとして、命を爆発させているだけでしかない。







「自然を守ろう」、「地球を救おう」、「自然と共生しよう」という類いの謳い文句の裏には『人間が生きながらえる』という一番の目的が隠されている。のに、表に出さない。なんと卑しい。




しかも、あたかも自然は自分たち人間が管理してあげないとダメだというような自然に対する軽薄な上から目線。

仕舞いには、「自然と手を取り合って共に生きよう」なんてなんとも甘い。
藁一本すらつくることができないくせに…



自然、地球に人道主義を適用してしまうことに問題がある。




僕ら人間は、何も救えない事に気がつかなければいけない。
僕ら人間は、自然なんか守れないことに気がつかなければいけない。
僕ら人間は、人間が生きながらえるには何が必要か気がつかなければいけない。
僕ら人間は、互いを殺し合いながら生きていることに気がつかなければいけない。
僕ら人間は、地球は命はあるが人間ではないということに気がつかなければいけない。
僕ら人間は、自然と真正面からぶつかって生きていることに気がつかなければいけない。
僕ら人間は、自然と命を懸けた熾烈な闘いをしていることに気がつかなければいけない。
僕ら人間は、自然から学ぶべきことがたくさんあることに気がつかなければいけない。





環境保護活動をするなら、「人間が生きながらえるために」という言葉を付け加えよう。



Wednesday, August 21, 2013

羨む

ストレートカイロプラクティックの世界に入ってからというもの、『羨む』ことの無意味さを実感することが本当に多くなった。


よく、「○○さんは××があっていいな〜」、「○○は△△でいいな〜」と羨む。



容姿や、環境、性格など、他人と自分を比べて「いいな〜…いいな〜…」と自分以外の、自分に無いモノを羨む。



けど、容姿で言えば自分の顔、体格、体型を決めているのは自分自身だということ。
カイロプラクティック的に言えば、“Innate Intelligence”(先天的叡智)だ。

なんでそのような眼になったのか、鼻になったのか、口になったのか。
なんでそのような手になったのか、足になったのか、その手足の長さになったのか。
なんでそのようなお腹になったのか、お尻になったのか、背中になったのか。


結局自分の容姿を決めたのは、自分自身。

あなたにとってその容姿が“ベスト”だから、あなた自身がその容姿を選んだのだ。



他人を羨むのは、他人と比べるからでしかない。

他人と比べたところで、他人になれないし、自分がその容姿を決めたのだから、わざわざ他人になる必要も無い。




それは環境、性格も同様だ。

実は自分で容姿、環境、性格を選んでいることを知らない人が多い。




全ては自分次第。

他人と比べて自分を蔑むより、自分は自分として自分の人生を生きているんだと自覚する事が、もっともっと自分らしく活きる秘訣だと感じる。




自分は自分でいいじゃないか。それが自分なんだから。


Thursday, August 8, 2013

健康工房かんぜ

先日、福岡県の太宰府にあるスペシフィックカイロプラクター、落合隆先生のオフィス健康工房かんぜ にお邪魔してきた!




延岡から車で3時間ちょっと、太宰府天満宮近くにある碁盤目状の住宅街にひっそりとログハウスのオフィスがあった。

中に入ると築10年経っているというが、木の香りが全身から感じられて心地良かった。
軽く挨拶をすませたが、まだクライアントさんがいらっしゃったので待ち合いスペースでしばし談笑した。





クライアントさんが帰られると中を見させて頂き、あまりの木の心地良さから身にまとっている“布切れ”が邪魔で違和感を感じたので、思わず靴下を脱いだ。笑


いろいろ話していると、
「もうすぐで道さんくるかな〜」と落合先生。

なんと、わざわざ天神からスペシフィックカイロ路の佐藤道先生が来ることになっていた!




フワフワした空気を纏った道先生も合流して、三人で近くのお寿司屋さんへ!
初めて回転寿し以外の寿司屋に入った!笑


二階の座敷で腰を下ろすと、さて本番だ!的な空気が漂ってきた。
落合先生のあの優しい瞳が急に鋭くなって、今の自分にバシバシと豪速球を投げてきた。



それは単にカイロプラクティックの話というよりも、それより大きなテーマについてだった。
言うなら『生き方』か。


落合先生がどのような『生き方』をして来たか、どのように『生きている』かということを聴けた。

色々同調することも多くあったが、自分の中にあった未だ言葉になっていない感覚を、落合先生の口から言葉にして聴く事ができた。

特に印象に残ってるのは、

「過去も未来も『今』の為にある」
「時間軸なんてものはなくて、『今』があるだけ」

という言葉だ。



色々話して行くと、ある事に気付いた。

特に最近、自分を決め込み過ぎないようにビジョンを大まかなものにしていた。


中学、高校、大学とカイロプラクターになることやカイロの本質を掴む為に留学しようなど、明確な目標と行程を自分で決め込んで、自分の努力だけではないが、その目標に沿って必要なものが目前にその都度顕われることが何度もあって、運良く実現して来た。


ビジョンを明確にしないようになったのは、『今』を大事にしたいと思ったことがきっかけだった。未来の為に生きるのではなく、『今』という瞬間瞬間のために生きたいと思っていたからだ。


けど、それはちょっとだけやり方を間違っていたことに気付いた。

『今』を生きるには“明確”なビジョンを持つ事と同時に、それに振り回されない柔らかな“曖昧さ”とを兼ね備えなかればいけない。一見、相反するものが同時に存在しなければ、バランスを崩して本末転倒だ。
明確さと曖昧さを兼ね備えることで、自ずとある“流れ”に身を委ねられる。
明確さだけでも、曖昧さだけでも、『今』を生きるというテーマはずっと成し得ないだろう。




そんなこんなで、もう次のクライアントさんの予約があり、落合先生、佐藤先生とは解散して家路に着いた。




落合先生、佐藤先生、貴重な時間をありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします!