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Thursday, May 30, 2013

カイロプラクティックを愛する者として

日本には無数のカイロプラクターがカイロプラクティックを生業としている。

もちろん、その“カイロプラクター”達の中には、カイロプラクティックを一治療法として行っている人、カイロプラクティックを新たな医療として確立しようとしてる人、カイロプラクティックを心底愛して常に追求し、啓蒙している人など、様々な人が“カイロプラクター”とひとことで括られる。




その“カイロプラクター”達の中には、海外のカイロプラクティック大学を卒業した所謂、D.C.(Doctor of Chiropractic:カイロプラクティックの学位を持つ人)と、non-D.C.(カイロプラクティックの学位を持ってない人)に別けられる。



D.C.とnon-D.C.、正直、その区別はカイロプラクティックを愛する上で全く以て無意味だ。

D.C.だと偉い?賢い?正しい?カイロプラクティックのプロ?
non-D.C.だと偉くない?賢くない?正しくない?カイロプラクティックのプロじゃない?






それは違う。






肩書きに振り回されないで。
産まれて来た時は、みんな素っ裸だ。



学位の議論。
やりたい人はやってください。






カイロプラクティックを愛する者として。



Tuesday, May 21, 2013

違和感とストレス

日頃の生活で、何かと意識的に違和感に眼を向けることはあまりないかもしれない。



それは多分、その違和感を無意識的に感じながら体がうまく対応しているか、感じながらも意識的に無視してる場合が多いと思う。

例えば水。
先日、香川県高松市のストレートカイロプラクティックオフィスのJapanese BJこと藤渕先生宅にお邪魔した際いただいた水は、口に入れた時の違和感がほとんどなかった。以前から、良い水を生成するための物を使っていることをブログで拝見してたので、飲んだ時に「ああ〜、やっぱりな」という感じを受けた。

それに引き換え、実家の延岡から宮崎市に来て驚いたのは、水道水がおいしくないこと…。歯磨きを終えたあと、口を濯いだ時の塩素の刺激にビックリした。こんな宮崎県で水のまずいところがあるんだ…と少しショックだった。さすが大都会、宮崎市。笑


そして、もうひとつの例として、椅子やソファがある。
これは、家具店に行った際に試して欲しいが、片っ端からソファ等に座ると、物によっては座っているというよりも座らされているというか、自分に合う合わないがはっきりとわかる!今のところ、キング・オブ・ストレスレスは北欧生まれのその名も「ストレスレスチェア」だ!これ欲しい!!と思って値段を見ると……

やっぱり、良いものは口にしたとき、使ったときの違和感、ストレスが少ない。カイロプラクティックも然りだ。



かと言って、日常生活で細かいことに目くじら立てて生活する方が自分にとっては“ストレス”になってしまうので、自分のストレスにならない程度に意識するようにしている。違和感、ストレスを減らす事自体がストレスになっちゃ本末転倒でしょ。



日頃の違和感、ストレスに“適度”に眼を向けてやると、もっと楽しく自分の人生を生きることができると思う!みんな、自分の人生を楽しむ義務があるんだから!!





Sunday, May 19, 2013

自縄自縛

閉塞感、不自由感を感じることは生きて行くうえで当たり前にあることだと思う。

自分はこうしたいのに、なんでこれをやっちゃダメなのか…、なんでこれをやらなきゃいけないのか…、どうして周りはこうなのに自分だけ…、自分はこうだから、自分はああだから…、この状況から抜け出したい…けど……





そんな“制限”を煩わしく思って、そいつをぶち壊してやりたいと思い、誰もが自由を求める。うちのオフィスにいらっしゃる方の中にもそういう方がいる。


しかしながら、その“制限”は自分で作り出していることにふと気付く。まさに、自分の縄で自分を縛っている。自縄自縛だ。そんな趣味を持つ人はほぼいないはずだ。一部の人を除いては。笑…




本来は自由であるにも関わらず、実は自分で“制限”をかけている。


そもそも、本来自由である事に気付かないのが通常かもしれない。

それは、あまりにも身近にありすぎて気付き難いからだろう。まるで、自分の後頭部が自分で見えないように。実は潜在的に自由を感じたいからこそ、自分で自分を縛るのかもしれない。



自分の縄で自分を縛ってるなら、自分でその縄を解こう。出来る範囲でね。



はみだせ!



Friday, May 17, 2013

一体感

実際、カイロプラクティックを受ける時もやる時も「一体感」がある。



これはなんと言うべきか表現が難しいところだが、相手との一体感もあるし、自分自身の内と外の一体感、自然との一体感等々… なんとも言い難いすべてとの一体感を感じる事ができる。




これは武道、麻雀、芸術、自然農、老荘の思想、そしてカイロプラクティックと、いろんな本を読むが全てに共通するところがある。それは本質と言うべきなのか。


全てが眼に見えない本質でつながっているからだろうか、すべての分野が共通してるし、どの業界でもずば抜けてる人達は皆同じ事を言ってる気がする。




自分の場合は、たまたまカイロプラクティックの分野に入っただけで、どの分野の人達も本質の表現者であって何も変わらないんだろうな。





これから、もっともっと来てくれる人に「一体感」を感じてもらって、感動を与えたい。


この世の中は、もっと楽しい!!




一体

Wednesday, May 8, 2013

全人間的に生きる 4 

全人間的に生きるには、「肩書き」は必要ない。
むしろ肩書きがあるほうが、自分が制限され、素直にその人自身が表現出来なくなってしまう。


この世の中は肩書きだらけだ。
肩書きはある意味、ごった返した混沌の世の中をわかりやすく合理的に過ごしやすくするための分類だ。これは一部の人間が、従属関係、階層制、分業制という後天的な叡智によって造り出したシステムで、その一部の人間だけが得をするようにできている。




岡本太郎の肩書きは、一般的には「芸術家」だろう。
しかし彼は、肩書きを「人間」と言っていた。そして本業を「生きること」と。
彼は絵を描くことにこだわっていたわけでもなく、彫刻にこだわったわけでもない。多くの著書を残し、講演会もやり、テレビにも出演したが、芸能人になろうとしたわけでもない。
つまり彼は、絵描きでもなく、彫刻家でもなく、芸能人でもなく、彼はいち生命体として、いち人間として、内から溢れる衝動、膨らみ、広がりを表現することにこだわってきただけだ。その結果として、絵や彫刻、マスメディアを使っただけで、それらはただの方法論であったことに気付く。





その人の生まれ持った全てを爆発させる。それが全人間的な生き方であり、本当の自由だ。そこに「決めつけ」はない。


Monday, May 6, 2013

全人間的に生きる 3

生命を感じ、その爆発を表現する為に岡本太郎はひとつの決心をした。



「これからは、自分にとって不利な道、危険な道を選ぼう」



これは一見、自殺行為ともとれる。
しかし「生」にこだわればこだわるほど、人は自分の生命を大事に奥にしまって生命の表現、歓喜を自分でふさぎ込んでしまう。逆に「死」にこだわればこだわるほど、生命は燃え上がり、膨れ上がり、広がって行くという矛盾のなかの光を追う事を決心したのだ。


そのひとつの例として有名なのが、スキーだ。
岡本太郎はスキーを46歳ではじめたらしい。それは滑るときに生命の危機を感じ、必至にそれに対してぶつかっていく過程に生命の歓喜を覚えたからだという。





岡本太郎に「遊び」はあっても、「お遊び」は存在しない。
遊びとお遊びには雲泥の差があって、本気度が全然違う。「お遊び」は趣味程度で、それに全身全霊をつぎ込まない、つまり自分を守りに守って傷つかないようにするいわば馴れ合いの「事なかれ主義」と通ずる。
一方「遊び」は後先考えず、自分の全てを投げ打って没頭することを言い、死をも恐れずにぶつかることで人間の奥底にある生命の歓喜を爆発させるという、岡本太郎の哲学だ。





Sunday, May 5, 2013

全人間的に生きる 2

岡本太郎が美しいと言ったのは、内なる生命を素直に表現することであり、その反対に表面上の馴れ合いや、金や地位や名声のために自分の生命に逆らいその場をとりあえずやり過ごそうといういわゆる“大人”な振る舞いに関して異を唱えた。

顔はニコニコしながら、思ってもいない事をツラツラと言い合う関係。真正面から意見をぶつけ合わずにどちらも傷つかないようにその場をしのぐ。俗にいう「空気を読む」っていうことも同じだろう。




岡本太郎は、分業制を嫌っていた。
一見、分業制は戦略的に効率を上げる画期的な制度だが、その反面大事なモノを覆い隠してしまう悪の存在となってしまう一面もある。その産物として「事なかれ主義」ができ、出来るだけ目立たず、周りと同化して生きていれば幸せだという錯覚に襲われているのが“大人達”だと岡本太郎は主張した。

人が良いと言うものを良く思い、周りの人たちがやってることが正しいと思い込んで、自分の奥深いところへの注意はおざなりになってしまっている。自分がどう感じるかではなく、周りの眼を気にして行動することほど、生命にとっての侮辱はない。




そういう経緯があり、岡本太郎は「人類の進歩と調和」という表面的な“大人な付き合い”を一蹴したのだ。




全人間的に生きる 1

「全人間的に生きる」という言葉は、岡本太郎が強く主張していた言葉であり、メッセージだった。


なんだそれ?っていう人がほとんどだろう。まあ、自分も初めて読んだ時は意味不明だったが少しずつわかってきたので、ここで紹介しようと思う。



大阪万博の「太陽の塔」でお馴染みの岡本太郎。
なぜあの太陽の塔を作ったかというと、大阪万博のテーマだった「人類の進歩と調和」が気にくわなかったからだ。そこであの有名な建築家、丹下健三氏がテーマに沿ってデザインした平らなひとつの大きな屋根をわざと突き破る巨大な塔を作ったのだ。


岡本太郎の根本には、いち人間、いち生命体として内に秘めたる生命を素直に表現するべきだという思想がある。それを「芸術は爆発だ!」と言い表したわけだ。
彼の言う「芸術」とは「生命」であり、「生命あるもの即、芸術家」という、もっと根本的な思想に基づいた言葉なのだ。いち生命体として生命を全うする為に、その内に膨れ上がる得体の知れない衝動というのか、何とも言えないモノの膨らみ方、広がり方を爆発と表現しただけだ。




そんな岡本太郎は、縄文時代、縄文人が好きらしい。
それは、縄文人達の時代には今のような主従関係、階層制などが無く、縄文人のほうがより生命に素直に生きた人類だったからだ。

これは「笑っていいとも」でやってたのを見て知ったのだが、性格が穏やかな縄文人は先に日本列島に辿り着き平和に暮らしていたらしい。しばらくして性格が支配的な弥生人が日本列島に入って来てから、縄文人は北と南に追いやられたという。そこで岡本太郎が東北と沖縄が好きだった理由がわかった気がした。




Friday, May 3, 2013

これでいいのだ


「これでいいのだ」


と言えば、赤塚不二夫が世に送り出したギャグ漫画のワンフレーズだ。

これに関して、タモリが弔辞でこう述べている。


「…。貴方の考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受入れる事です。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表しています、すなわち『これでいいのだ』と。…。」



これに似たような言葉が宮崎の方言でもある。「てげてげ」だ。

自分は宮崎県でも北の延岡出身なので、「てげてげ」は使わない。もともと「てげ」だけで「かなり、すごく、超」といった意味があるみたいだが、それをふたつ並べると全然違う意味になってしまう。

「てげてげ」=「適当」

最近沖縄でも同じような良い方をするというのをテレビで見てビックリした。
それも「てーげー」。




この「これでいいのだ」という言葉は、日々何かに追われ、息が詰まりそうになってバランスを崩しそうな人に教えてあげたい。



たまには自分に言ってあげて欲しい。

「これでいいのだ」と。


老化

自分のゴールデンウィークは28日から2日だった。

その間、祖父母や親戚と同じ時を過ごしたが、一番感じた事は「みんな年取ったな〜」ということだった。


29日は父の実家である金龍寺の庫裏の新築祝いで、70人弱くらいかな?親戚一同が集まった。叔父や叔母、かなり久しぶりに会った遠い親戚など、皆一様に年を取っていた。親戚の子供達もどんどん大きくなり、もはや誰が誰か…。





30日から2日までは祖父母と共に過ごしたが、年齢にしたらかなり若々しいが、それでも随所に老化はみられた。




けど老化って一体なんなのだろう?
一般的には老化はあたかも悪いことのように取りざたされているが、本当にそうなのか?

そもそも老化って存在してるのか?
老化と呼ばれるものは、生命の辿る道であって、それに勝手に名前が付いただけ。だから良いも悪いもない。自然現象の一部だ。


老化によって、若い頃のことが羨ましくなりがちなんだろう。よく「昔はああだった、こうだった」と耳にタコが出来るほど言っている。体も硬くなるが、頭も固くなるみたいだ。



自分もそうなるんだろうな。死ぬまで柔らかくいたいけど、自然の流れに身を任せるより他に生命を全うさせる術はないんだろう。


う〜ん、いろいろ考えさせられた5日間だった。